中島梓「タナトスの子供達」(再読)

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

中・高生の頃読んだものなのですが、文庫で購入し、再読。

私にとって栗本薫中島梓)の初印象はあまり良いものではありませんでした。
初めて栗本薫の文章に触れたのはダニエル・キイス「五番目のサリー」の解説ででしたが
「自分の中に何人もの人格が住み、朝かと思えば、夜になっている。
時間が本当に矢のように過ぎていってしまう」
「自分の人格が自分の知らないうちに行動を起こし、他人を傷つけ犯罪を犯しているかもしれない」
という多重人格症の辛さ・恐怖を理解しておらず、
栗本薫はそれを「特別だからいいじゃない」といい
彼女自身の単なる性格の使い分けに過ぎないものを「自分も多重人格症だが楽しく暮らしている」と
自分も多重人格症であるかのように言い、実際の多重人格症を理解しておらず、
あまりにも軽く語っており、
その時の私の印象は「何だこの作家は」「この人は本当にビリー・ミリガンを読んだのか?」
というものであり、
ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』や『24人のビリー・ミリガン』に感銘を受けた私は
こんな人に解説を書かせないで欲しいものだ、とその時は正直そう思った。


この方がやおい関係の開拓者であることを知るのは、それから2、3年後のことである。


どうも最初から欠点ばかり書く形になってしまったが、
栗本薫中島梓)は「おっと思わせるような良いこと」も言う。

例えばこの本はやおい論の本なんだけれども、10年近く前の本だが、今でも新鮮さを感じるし教えられることは多い。本に書かれていることをおおざっぱに書いてみると


やおいにはまる少女達は少年になりたくてもなれなかった少女達である。
少女の肉体では対等の関係を築けないため、
現在の社会で有利な性である男性の肉体を借り、対等の恋愛関係を築こうとする。
やおいに出てくる美少年は、少年の姿を借りた少女であり、
受けの美少年は、やおい作品の中で女性的役割を担うことが多いが
そのような女性的役割の良い面は享受したいと思いつつも
私生活でも仕事の場(少年漫画における戦いの場)でも相手に必要とされたいと考えている。
またやおい作品はカップル単位で動き、カップル至上主義である。


やおいと実際のゲイ(男性同性愛)はどのように違うか
やおいは関係性を重視し、たった一人の、誰でもない「あなた」を求め、
「好きな相手がたまたま同じ性別だった」と言うが、
男性同性愛は、自分と同じ身体をもったものに欲情し、より男らしいものを求める)


最近やおい関係は再び注目されており、一般に広まり、以前よりは知られるようにはなったのだが
「なぜやおいを好きな女性がいるのか」「なぜやおいを好きになるのか」
という点は深く考えられることが少ないように思うし、たまにweb上の掲示板などで議論されているが「一般の層に広がるのはうれしいが、紙媒体において既に10年以上前に何度も議論されていること」だと思うし、私もやおい関係の本や評論を逐一チェックしているわけではないが、議論の内容においてはあまり進歩が無い。やおいに限らず、男性向けのセクシュアル・ファンタジーなんぞも
紙媒体で論じられている(大塚英志とか)のでみてみるとおもしろいと思う。


また漫画の批評も「面白い」「的確」と思わせるものが多くあり、
幽遊白書」が性を知らぬ少年の物語であること、
ガラスの仮面」は少し触れられただけだが、
あの漫画が少女漫画でしばしば優先され、人生の目標とされる男女の恋愛関係より、
演劇などにおける役者の技能、夢を優先させる物語であるから
一般の少女漫画より元気なのだ、と書かれており、
なるほどなあ、と思った。



栗本薫中島梓)は、所謂学歴コンプレックスに囚われているように感じる。
そのため社会的弱者、ハンディを背負った者が、社会的順位の高いものの価値をおびやかすかもしれない「特別なもの」だと考え、自分が学歴社会で一番になれなかったために「特別」に憧れている。
身体の機能を失うこと、精神を病むこと、時間を失うことは、可能性を奪われることであり、
本人にとっては苦痛であり、もし時間が戻るならなかったことにしたいことであり
それはドラマチックなことでもなんでもないことだ。
マイノリティを「特別な価値が付与されたもの」だと考える者は、真のマイノリティの理解者にはなれない。


欠点はあるが、やおい関係に興味があるなら、読む価値は十分にあると思う。
やおいエイズ・多重人格症との関連については同意しかねるが
やおいと実際の男女の問題との関連、漫画の評論などは読みごたえがあった。


※ここまで書いといてなんですが、あとでもう少し書き足すかもしれないです。