ハウルの動く城「原作と映画版の比較」〜本当に映画版は原作の単なる要約なのか?

ハウルの動く城 [DVD]

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ハウルの動く城1  魔法使いハウルと火の悪魔 (ハウルの動く城 1)

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映画版では世界設定は曖昧であるが、原作ではインガリーという国が舞台となっている。
この国は、昔話でおなじみの七リーグ靴や姿隠しのマントが本当にある、おとぎ話の世界であり、
原作ではソフィーは三人姉妹の長女(※1)である。


おとぎ話の世界では「シンデレラ」のように「長女は何をやってもうまくいかない」という王道パターンがあり、
ソフィー自身もそう思い込んでいる。
末っ子は末っ子であるというだけで出世するが、長女が運試しに出れば失敗するのだ。
おとぎ話の世界ではそれが世間体であり、世の中のルールなのだ。


ソフィーは自分の不幸を「自分が長女」であるせいにしている。
そしてそれを実現するかのように荒地の魔女に呪いをかけられ、ソフィーは90歳の老婆になってしまう。
これは心(気持ち)の年齢を、肉体のそれにそのまま投影させてしまう呪いであり、
映画版ではソフィーは物語のシーンによって年齢が変化する。
映画版ではこののろいを解く方法は心の若さを取り戻す事であり、
ハウルに恋する事によって、自分の気持ちに正直になることによってソフィーは若さを取り戻す。
帽子屋で働き詰めであった頃ソフィーは老婆であった。


原作ではソフィーの母親(原作では若い継母という設定になっている)であるファニーは
父親の死を契機に、三人の娘を学校からやめさせ、次女のレティーをパン屋の徒弟奉公、
三女のマーサを魔法使いの見習にさせ、長女のソフィーを帽子屋の後継ぎにする。
ソフィーは見習ということで給料ももらえず、夜中まで働きつづける。
ソフィーは自分の考えや判断を信じることが出来ず、母親に依存している。
次女や三女はソフィーとは考えが異なり、母親が自分たちの才能をねたんでおり、
自分たちを厄介払いしたと考える。
彼らは本当に自分たちがやりたいことをやるために、姿変えの魔法を使い、互いの姿と立場を取り替える。
彼らはソフィーとは違い、自分で自分の人生のハンドルを握ろうとしている。
三女のマーサはソフィーに「母親は仕入れを名目に、ソフィーが稼いだ金で遊んでいる」と告げる。
しかしソフィーはマーサの言うことを信じきれず、母親に自分に給料をくれるかどうか尋ねるが、
話はうやむやになってしまう。やがてソフィーは自分は母親に利用されているだけと考え、
親から与えられた仕事に意味を見出せなくなり、次の朝、客に当り散らす。


原作のハウルは戦争のためではなく女の子をナンパする為にたびたび外に出る。
映画ではソフィーが兵隊にからまれていたところをハウルが助けるが、
原作の方ではソフィーをナンパするのがハウルなのである。
ハウルは女のように何時間も浴室に入り、化粧をし、香水をつけ、着飾る。
男性の欲望の視線により女性の身体はコード化されてきたが、ハウルはその逆で、
魔法の力で髪の色まで変えて女性の視線に応える。
ハウルの趣味は恋であり、大変移り気であり、あげく相手がその気になると、どうでもよくなる。ハウルは自分のことにかまけていて、周りのことをよく見ていない。
ハウルは縛られるのを嫌い、わがままで、大変な浪費家であるが、
まじないに対する金が払えない客には親切であり、
かつてみなしごであったマイケルを引き取るなどの優しさも持っている。
後半では身なりに気を使っていたハウルがつかまったソフィーのために身なり構わず振り乱す姿が描かれる。



原作では、ソフィーには物に命を吹き込む魔法の力があるという設定が用意されている。
この国の通常の魔法使いは訓練によって魔法の力を得るが、ソフィーの魔法は生まれながらのものだ。
ソフィーは自分がかぶる帽子に魔法をかけ、自分で自分をみじめにしていた。
荒地の魔女の呪いはカルシファーいわく「2重の呪い」である。
荒地の魔女だけでなく、ソフィー自身が自分に90歳の老女になるという呪いをかけていたのだ。
物語の後半になるまで、ソフィーは自分の力に気づかない。
荒地の魔女は、ソフィーが知らず知らずのうちに「魔法をかけた帽子を売っていた」ことを
「自分の領分に手を出し、はりあおうとしている」と解釈し、ソフィーに呪いをかける。
魔女の呪いによって90歳になったおかげでソフィーはものの見方が変わり、視野が広がる。
行動が大胆になり、年寄りになると、自分が何をしようが、何を言おうが気にならなくなる。
原作では老人の過程を得て、ソフィーが自らの思い込みに気づき、自らの魔法の力で戦い、事態を切り開き、
ヒーローであるハウルを逆に救うことによって、呪いが解ける。



物語のクライマックスでソフィーが炎の悪魔カルシファーからハウルの心臓を取り出し、
その技能によって、そのまま引き剥がせば死んでしまう両者に生命を与え、悪魔とハウルは救われる。
アニメ版では、この設定があいまいになっており、
ソフィーが、ハウルの悪魔じみた男性性の醜い部分そのもの――イドのごとき姿を抱きしめ、
彼女が心臓(炎=心)を彼の体に戻す事によって、彼の心と力は正しい方向に導かれ、
彼は現実の時を取り戻したかのように描かれる。
心臓を動かし、元に戻せたのは「ソフィーの技能」によってではなく、
それが「ハウルの愛するソフィー」であったからのように描かれる。
映画版では炎(心臓)にソフィーが水をかけてもハウルは死なないのである。
なぜなら、ソフィーがハウルにとって大事な人間だからである。



また家事労働の捉え方もかなり異なる。
原作ではソフィーが自分をハウルの城に置いてくれるようハウルに考えさせる為、
自分が優秀な掃除人であること、価値があることを示す為に掃除をする。
原作のハウルはソフィーの家事労働を「奴隷働き」と指摘する。
映画版では肯定的に捉えられており、
ソフィーは掃除をし、小さなマルクルにマナーを教え、途中から家に押しかけてきた荒地の魔女の世話をし、
ハウルの城に生活感という季節をもたらす。
「私綺麗じゃないし、掃除くらいしかできないから」とソフィーは言う。
物語の最後、飛び回っていた城は所帯持ちの家となり現実の生活の場となる。


また、映画では「荒地の魔女」というより「サリマン」がこの物語の敵となっている。
王室付き魔法使いサリマンは原作では男性でハウルと同期の魔法使いだが、
映画版では女性でハウルの師である。
簡単に外の世界の戦争をやめさせることができるサリマンはこの世界の母であり、
ハウルは血はつながっていないが彼女の息子といっていいだろう。
サリマンの城の小使い達は皆少年の頃の「ハウル」と同じ姿形をしている。
外圧的な、外の世界の権威の象徴・かつての保護者・母がサリマンであり、ハウルは家から逃げたした息子。
ソフィーの助けを借り、その愛の力のおかげで大人となることができたのだ。


原作での荒地の魔女の目的は、
ジャスティン王子と魔法使いサリマン、ハウルらの身体の中で、
好きな部品を寄せ集めて完全な人間を作り、
その人間をインガリー国の王にすえて、自分が女王として統治することである。
原作は永遠の美しさに執着するものを批判する。

原作では、男性中心的な家父長制、男は外で働き、女は内で家庭を守るという性別役割意識が批判的に書かれるが
映画版は肯定している。



註1 映画版のほうでは、次女のレティーは登場する。
また原作では三女であるマーサは、ハウルに心臓を食べられた娘として、帽子屋の店員達の噂の上に登場するのみである

〜参考文献〜

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD5918/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%8B%95%E3%81%8F%E5%9F%8E

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA