筒井康隆「残像に口紅を」の感想


残像に口紅を (中公文庫)

残像に口紅を (中公文庫)


筒井康隆の断筆宣言前の実験小説。
章が進むたびに、言葉が一音ずつ消えていき、
そのたびに世界からその音を使って表す対象物が消えていく、という話。


残像に口紅を」というタイトルは
消えた対象物のひとつである主人公の娘(三女・絹子)に口紅が似合うから、
せめて自分の思い出の中の娘に薄化粧を施し、紅をさしてやろう、とのことから。
消えた言葉や対象物を知っている・あるいは対象の喪失に気付かないのは「読者」なので、
この小説では読者が主人公の無意識になるらしい。また消えたモノたちは読者の心の中へ行くらしい


筒井康隆は現実的なものや私小説を嫌い、自然描写をあまりしない、空想的な作家なので
肝心の「対象物が失われる悲しみ」はあまり伝わってこなかった。
失われるといっても、それによって世界の構造や人々の関係が大きく変化するとかそういうことはなく
ただ単に対象物を認識できなくなったことで
主人公が失われたものに対し個人的に郷愁を感じているだけなので
ゲームのようにしか感じられなかった。
とはいえいつもの後半のドタバタ展開は好きだし
言葉が少ない状況でもぺらぺら喋る主人公には恐れ入ったが。


率直な感想としてはエンターテイメントとしては筒井康隆の他の小説のほうが面白いかな。
批判的なことを書いてしまうと
筒井康隆は明らかに男尊女卑的考えを持っている。
特に初期の頃は酷い。手元に『私説博物誌』があるので幾つか書くと、
オスが出産をする魚「タツノオトシゴ」の紹介の章では、
出産の際、女性が痛みに強いことを「鈍感である」と馬鹿にし、
「男権社会を当然とし、世の中を動かすのは男性である、男性の妊娠によって、それが崩壊してはならない。そしてその維持のためには、女性は社会へ進出してはならん」
と締めくくってるし。(そもそもこの本自体「人と動物」を明確に分けた動物誌だし)
そしてこの「残像に口紅を」でも人のいいなりになりやすい店員の女の子に対し、
いい年した主人公が「いたずらをしてやろうか」などという考えを抱く記述がある。おそろしい。
主体性のない人間、人の言いなりになる人間、つまり奴隷は、何をされても仕方がない、
その未来には「死」しかないのであろうか。


まあ筒井康隆はただ単に所詮男女平等で自分の楽しみを侵害されるのが嫌なだけな無意識的差別主義者なんだが。
この小説においては、奥さんや娘たちの家事について「大変だ」と記述しているし、
奥さんが「疲れた」といえば外食にも連れていっている。
ただ彼にとっては女の人が家事をやる方が何かと都合がいいのだろう。


(でもこういう男性は多いと思うぞー。
こういう場合は、もし自分が異性のその立場になったら…と考えてみればいい。
よく男性で「女は家にいるのが幸せ」って言う人がいるが、
それはあなた自身が「家にいて、ずっと家事をやっていて幸せ!」と心のそこから思ったという経験に根付いているのか〜)


この本には本人があまり語りたがらない伝記的事実が含まれており、
それを信じて参考にしてしまうと、筒井康隆が無意識的差別主義者なのはどうも父母(特に母)の影響らしいのだが、父親的存在への反逆などといっても、所詮自分の楽しみ優先の男尊女卑だし、本人が作中で言っている通り、結局やってる事が母親と同じなんだよな。彼は「幸福すぎる」からこそ、今まで自分の思い通りにやってきたからこそ、差別用語を無自覚に使うのではないだろうか。
(でももしこういう生まれで、いっさいの教育や挫折がなかったら、自分もこの母親のような性格になっていたと、おこがましいかもしれないが、思ってしまった。)


とまあまた批判的なことを言ってしまったのだが
でも、筒井康隆は頭が良くて先駆的で面白いから、という理由で未だに読みつづけているし
好きな作家なんだと思う。
大学の頃、ゼミで自分の発表で扱う候補として挙げたら
そして「筒井康隆は品性下劣だからやめておけ」と言われた記憶が。
この作家さんの作品が好きだと言ったら、同級生に白い目で見られたのが辛かったり
まあ良くも悪くもこの作家さんは自分の原点なのだと思う。
最近は「時をかける少女」「パプリカ」(両方見たけれど面白かったよ!)など
アニメのヒットにより再び知名度が上がったように思うが、
よい意味で現在の情報社会に合った作家のように思う。


※初心者におすすめなのは文庫版の「ベトナム観光会社」(マグロマルやカメロイド文部省が面白い!)
など。初期のSFはどれもおもしろい。他には今思いつくのでは「旅のラゴス」なども一般の人も楽しめるのではないだろうか。